オブンガク堂Café 久生十蘭 原作「黒い手帳」より

昨日2月20日、オブンガク堂Café-時空ヲ旅スル音楽会-<フランス>久生十蘭・著「黒い手帳」のライブと同時ライブ配信が千秋楽を迎えました。

ご視聴いただきました皆さまへ、また思いを寄せていただきました皆さまへ、感謝申し上げます。


オブンガク堂Caféの店主(その名前のCaféが常設されているわけではなく、さまざまな場所において、カフェのような気軽な雰囲気で、近代文学作品の語りとその作品に寄り添った音楽を、そしてユニークなことにその作品に寄り添った「お菓子」を同時に味わいながらーといっても昨今の社会状況によりその場で共にお菓子を味わうことができなくなってしまっているが、、ーソーゾー《創造/想像/騒々》を広げて、作品を、そして人生をより深く味わうためのひとつの企てである)が脚色・演出・語りをされ、彼のパートナーの選曲・編曲・ピアノ、加えてフルート、チェロのトリオで奏される独特の世界観には、一度触れていただきたいと皆さんにお勧めしています。


今回の作品も一種独特の世界観のお話で、ここから先はネタバレも含めた私の想像の世界を書き留めておこうと思います。


ーこの先はネタバレなので閲覧にご注意くださいー


この作品、筆者の回顧録の形で「自分」を中心に一人称で書かれている。

さて、この「回顧録」、読み手には懺悔とも感傷のためともとらえてもらって構わない、と筆者は語っているが、もしかすると遺書かもしれない。

この物語では、生と死を、危うく緊張感のなかで絶妙にあらわされているが、この「生と死」をめぐる価値観についても強烈に問いかけてくるものとなる。生と死を取り巻く正義と犯罪と。これはいつの時代にも私たちに問いかけてくる問題なのかもしれない。

「死に対する価値観の変化」に対する問いかけという意味では、この作品を通して「安楽死」の問題が頭から離れなくなった。

武士の時代の価値観では安楽死とは「苦しませずに逝かせる」という美徳があると習ってきたように思う。それは今の日本人の価値観にも少なからず影響を与えているのではないだろうか。

それに対して、「死んだらもともこもない。とにかく生きて、生き延びて、その先には良いことが待っているはず」ということで、どんなに苦しんでいても医療や何かの方法で生き延びさせることに重きを置き、「安楽死」というようないかなる理由があったとしても人が人の命を絶つということは許されることではないという価値観は現代人のなかではごく自然なものかもしれない。

そのような考えの中、この物語に浸っていくと、ひとつの事実が浮かんでくる。

実際に犯罪を犯した人物はただ一人、「自分」だけである。

夫婦は犯罪計画を立ててはいたものの、実際には彼の「死」から蘇らせ、本物の「生」を与えた存在となりえたのではないか。

いのちをかけてかかわり、そこに「愛」から生まれる、いのちの豊かさを何らかの形でお互いが体験しえたのかもしれない。

そのことにより、この夫婦は彼の研究による賭博の解明の一端を理解し(もしかすると教授されたかも知れない)ひとつのシステムを完成させてベルギーに向かったのかもしれない。「大勝ちをしなくてもいい、少し食えるくらいでいいのです」という言葉はそれを物語っているように思える。

そして、自分はといえば、彼が自殺を図った場面に遭遇した折、彼とのかかわりを「殺す―投げ出す」ことにより、深められると感じたのかもしれない、が、それは大きな勘違いだったのかもしれない。

「肌のぬくもりを感じながら死にたい」ということは、「殺してほしい」のが望みなのではなく、「君の中で生き続けたい」という望みに近いのではないだろうか。

おそらく彼の「手帳」の中には、賭博のシステムの完成ではなく、彼なりの「本当の豊かさの生き方」のシステムが書かれていたのではないだろうか。

それを読み、愕然とした自分は、準備した水仙の毒によって自らの命を絶とうとしていたのかもしれない。自分の研究をすべてやめにし、研究室から自分の資料をすべて戻し、すべてをリセットする決意をもってこの「遺書」を書いたのかもしれない。



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