ご視聴いただきました皆さまへ感謝申し上げます。
さて、不肖にも本編の後のトークに登場しておしゃべりをさせていただいてしまったのですが、その際につい出てしまった話題に「ゴーシュは純正律と平均律の違いに苦労をしていたのではないか、賢治は読者に音律の違いで音楽の印象が随分と変わってしまうというメッセージを伝えたかったのではないか」という趣旨のお話をいたしました。
あの場だけでは時間も足りず、補足が必要と考えましてこちらに覚え書きとして記します。
曲によって、あるいは作曲家のいた時代や地域によって、そのほかさまざまな背景によってつくられた曲がどんな「音律」でつくられたかが違っています。
音律とは批判を恐れずに少々乱暴な言い方をしますと「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド」の音の間隔、つまりはドからレ、レからミにかけてどれくらい周波数の間隔をとるかという数値的な問題ー弦楽器にするとどれくらいの弦の張り具合にするかーを美しく聴こえる音の並びにするというもの、あるいは美しくに加えて曲をつくりやすく、だったり演奏しやすく、だったりいろいろな理由から時代や地域、思想によってさまざまな「音の並び」が考えられてきました。
ベートーヴェン第6交響曲は「キルンベルガー第2」という音律でつくられていたのではないかといわれています。
今回、私の中でのセカンドストーリーとして、「ゴーシュはそれほど下手ではなかったのではないか、普段、活動写真館で演奏しているときは『平均律』で演奏しているが、このベートーヴェンは『キルンベルガー』という音律なので、その微妙な音の違いに耳や指がついてこないのではないだろうか」ということを朗読とチェロのお二人に投げかけてみました。
カッコウが夜中にゴーシュのところに来て、微妙な音の違いの「ドレミ」を練習する姿は音律の違いを得とくするそれに思えてならないのです。
「ゴーシュGauche」という言葉はフランス語の「左利き・不器用」とかいう意味でとらわれることが多いようですが、実は古いドイツ語ではGauchで「カッコウ(同時に不器用という意味も)」のことでもあったようです。(梅津時比古氏・「ゴーシュという名前」論)
つまり、もしかすると夜中に現れた「カッコウ」はゴーシュ自身のことなのかもしれません。
三毛猫のことを飛ばしましたが、アフタートークでちらっとお話しした「三毛猫に対して怒鳴っている言葉はじつはベートーヴェン自身の言葉なんではないか」ということ。
私たちが「あーくたびれた!ベートーヴェンを演奏するのは本当に大変だ!!」と分かったような口をきいて、あたかも完璧な演奏をしたような顔をしていると、、「お前の持ってきたこんな未熟な演奏なんて聴いていられるか!!しかもそれは俺の曲ではないか!!」とベートーヴェン本人からおしかりを受けているような、そんな声を賢治は聞いたのかもしれません。
その後にゴーシュはハンカチを切り裂いて耳の穴に突っ込みますが、それは「うるさい曲を弾く準備」なのではなく「ベートーヴェンと同じように耳が聞こえない状態になる、そしてその状態で演奏する」という意味を持っているのではないかという思いになりました。
三毛猫が入ってくる前にゴーシュが「ホーシュ君かい?」といいます。
ホーシュ君って誰??ってずーっと考えていました。
ゴーシュ(Gauch)のGをHに変えてみると、ドイツ語ではなんと「呼吸」となります。
演奏にとって「呼吸」は命のようなもの。
ゴーシュは自分の演奏にとって必要な「呼吸」の訪れを待っていたのかもしれません。
さて、ゴーシュが三毛猫に演奏した「インドの虎狩り」。
私には「インドの、と、ラーガ、り」に思えて仕方がありません。
単に「インドにはラーガという神秘的な音楽があるよ」というメッセージを込めていたのでしょうか。。
こんな風に聴くたびに新たな発見や驚きの気づきをさせてくれる朗読とチェロの二人の真摯な姿勢と、それが生きる喜びにつながるような原動力を生み出してくれた賢治という人を改めてリスペクトです!
続きはまた。。。
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